★“過疎問題”論議の移り変わり★
少し、きのうのつづきを・・・
過疎というコトバは、いつの時代から出てきたのだろう・・・と
(昭和20年代、水窪・上村地区の田植えの様子)
昭和43年春、国民経済審議会が始めて“過疎問題”と命名
官庁、山村の関係団体、学者、ジャーナリストによる調査が始まった
しかし、それ以前の中央エコノミスト達は、『朝日ジャーナル昭和41年2月号』で
経済成長のため、農村地域の自然淘汰は必然の観点から
山間辺地、いや農村全般から労働力を集団撤収するべきと主張している
そこに、過疎の実態に目を向けようとする思想は無かった
当時、過疎地の生活や人間の問題が提示されても
“ そういうところに住んでいるから、浮かばれないのであって、
都市に出てくればはるかに幸せになれる、高度成長社会とはそういうものだ “
・・・・としている。 (いわゆる集落移転の構想!)
今では考えられない話だが、当時の過疎地域に対する認識はこの通りだった
しかし、この頃から地方自治体ではこれ以上の人口流出は防ぎたいとの視点から
特別立法による国の補助、政治的な要請が高まってくる
(スーパー林道天竜線開通の様子)
そして、昭和45年の過疎地域振興緊急措置法ができる
しかし、その内容は交通・通信の整備費がほとんどで約6割を占め
過疎対策に不可欠な農林水産の振興費は2割で、しかもその3割は観光開発費
今の過疎地問題、国としてその対策の始まりに誤りがあったのではないかと?
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