★北遠の小京都、水窪★
商店街には、街のところどころに
地名の由来の看板が記されてあります。
(写真をクリックして、拡大してみてください!)
『水窪の町を時の都、京都』 に見立てて
いろいろな地名がつけられたのだそうです
南北朝の時代、後醍醐天皇の孫
尹由(ゆきよし)親王を守るため
この地の豪族、奥山氏が高根城を築きその対岸に親王の仮宮を建てました。ここを
内裏(大理)とよび
親王が
御旗をあげたところを小畑・・・(最初は御旗と言う名前だったとのことですが、恐れ多いと言うので、小畑と言うように変えた)
として地名がついたのだそうです。
尹良親王につきましては隣、南信の大鹿村に
住んでいた南朝の宗良親王の皇子という人で、
極めて広範囲に活躍されたらしいのです
(実在の人かどうかは、諸説あります)
当時から、この地と南信との関わりは深く
浪合村には尹良親王のお墓とされるものがあり
住民は600年も前から守っています。 (写真は、親王のご陵墓です)
私が感じているのは遠い京都から多くの人が、
私達の住んでいる北遠・南信に来たことにより
文化も同時に持ち込んでくれた。
その影響は今日でも続いていると言うことです
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